それでも切り株が残る   加藤 誠

今日から教会の暦でアドヴェント(待降節)に入ります。12月25日のクリスマス前の四週の主日礼拝では「希望」「平和」「喜び」「愛」の四つのテーマを一つずつ取り上げて、馬小屋の飼い葉桶に生まれた方を迎えるにふさわしく私たちの姿勢を整えられていきたいのです。

アドヴェント第一主日「希望」。預言者イザヤが召命を受けた場面から御言葉を聴いてゆきます。イザヤが召命を受けたのはウジヤ王が死んだ年でした(イザヤ6・1)。ウジヤは52年間の長きにわたって南ユダ王国を治めた有能な王であり、彼の治世に南ユダ王国は領土を最大に広げ、豊かな繁栄を享受します。が、経済的豊かさの中で宗教的にも倫理的にもすっかり堕落しきった人々の間で神の言葉を語る。その使命にイザヤは立てられていきます。

「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」という神の問いかけに、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と立ち上がったイザヤですが、彼は自信満々でその招きに答えたわけではありません。神の前にふさわしくない自らの汚れ、神の赦しなしに立てない自分をイザヤは知っていました(同6・5~7)。

そのイザヤが派遣され向かい合っていったのは、どんなに熱心に神の言葉を取り次いでも一向に耳を傾けようとせず、かえって心をかたくなにしていく人々です。語っても、語っても、空を撃つような虚しさに襲われる中で、イザヤは「それでも切り株が残る」(同6・13)との言葉を聴いていきます。

 

愚かさに愚かさを重ねていく人間の歴史の中に、辛抱強く希望の種を蒔き、育みつづける神の働きを今日、見出す者とされますように。