これを食べよ!」 ~「派遣」を生きる~ 加藤 誠

 主イエスは、井戸端に座り込むほど、旅に疲れ、渇き、空腹でした。しかし、一人のサマリア人女性との対話を通して、その言葉にどんどん力がみなぎっていきます。弟子たちが「どこにそんな力が?」といぶかしがるほど、この時の主イエスの顔は輝いていたのではないか。そう推測します。
「私には食べるべき、あなたがたのわからない食べ物がある。…わたしの食べ物は、私を派遣した方の意志を行い、その業を成し遂げることである」(岩波訳:ヨハネ4・32、34)。
「今日は何を食べようか」。主イエスは、ここで自分の好みでメニューを選んでいません。「これを食べよ!」。「今日」・「ここに」・「この出会い」に、神が差し出した「食べるべき食べ物」を受け取り、自分のすべてを注いでいく。それが、父なる神からの「派遣」を生きる主イエスの歩みでした。
ヨハネ福音書を読むと、主イエスは繰り返し「父から遣わされた自らの使命」を語ります。主イエスの関心事はただ一つ。「父がわたしに成し遂げるように与えた業」(5・36)を行うことでした。死の直前、父なる神に向かい、「行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」(17・4)と祈る主イエスの迫力の前に、「自分はいったい何をしているのだろうか…」と深く問われます。
「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(20・21)。聖霊を受けるとは、この「派遣」を生きることです。今日の合同分級「信徒の働き、牧師の働き」では、「教会を形成する一人ひとりが宣教する弟子としての召しを受け、その召しに対する責務を自覚していた」のがバプテストであると学びます。さて、今日わたしは、「これを食べよ!」という主の召しをどう受けて、応答しているでしょうか。