この希望のゆえに   加藤 誠

「死」は、私たち生きる者にとって最も過酷な現実です。死は命を断ち切ります。関係を断ち切り、時間を断ち切ります。生きている限りはどんな状況もやり直しが可能ですが、「死」においては一切のやり直しがききません。
「死」は、生きる者すべてが必ず経験する平等な現実ですが、「死にざま」(どのように死にいたるのか)は不平等であり、時に不条理です。「死」は一度切りであり、その先に何があるのかを誰も経験することはできません。また「死」は孤独であり、どんな親しい間柄も「一緒に死ぬ」ことはできません。それゆえ、さまざまな「死」の現実に直面するたび、私たちは大きな恐れと不安を覚え、「生きること、死ぬこと」の不思議と不可解さの深い問いの中に投げ込まれることになります。

新約聖書は「死」をめぐる課題に次のように答えています。
イエスは私たちが経験する中で「最も過酷な死」(十字架)を死なれたことによって、死をつかさどる者を滅ぼし、死の恐怖に奴隷になっている者たちを解放された。イエスはご自身が試練を受けて苦しまれたからこそ試練の中にある者を助けることができる(ヘブライ2章)。死から神の力によって起こされた(復活させられた)キリストの執り成しによって、死さえも私たちを神の愛から引き離すことはできない(ローマ8章)、朽ちて死ぬべき者が神の国を受け継ぐことになる(第一コリント15章)…と。

召天者記念礼拝の今朝は、兄弟ラザロを亡くしたマルタとマリアと主イエスとの対話を通して、聖書が指し示す「希望」を受けていきたいのです。