このまなざしのもとで 加藤 誠

 クリスチャンになるということは、主イエスがご覧になったようにこの世界を見る者となり、主イエスが祈られたように祈る者になることです。それは容易ではないし、一生かけても不可能な道に思えます。けれども、繰り返し主イエスのまなざしと祈りに学びながら、自らの心の向きを正していく。そこにクリスチャンの生が形づくられていきます。その歩みはまず「神がこの世界に注いでおられるまなざしと祈りから、自分はいかに遠い存在であるか」を知ることから始まります。ヨハネ福音書9章に登場するファリサイ派の人々のように、自分は「見えている」「祈れている」というところに立っている限り、主イエスに従い、学ぶ歩みは起こりようがありません。

  ひとりの盲人の前に、主イエスは立ち止まりました(ヨハネ9・1)。生まれたときから「視力障がい」を負って歩んできた男に、どのようなまなざしをもって向かい合うのか。そこに、その人の信仰の「質」が浮きぼりにされます。主イエスは、「生まれつきの盲人」を「神の働きがあらわれる存在」としてその命を尊び、自分と対等な存在として向かい合います。主イエスが病気や障がいを負った人と向かい合うとき、「これだけ過酷な生をよく歩んできたね」と、その痛みや悲しみをはらわたで受け止め、一緒に涙を流すことはあっても、「なんと可哀そうな人だろうか」と「上から目線の憐み」をかけることはされません。また「なぜこんな不幸な目に遭うのか」と原因探し、犯人捜しをするのではなく、「命の主なる神が、必ずこの人の歩みの上に慈しみと祝福をあらわしてくださる!」という信仰において、「この地上での生を一緒に生きる仲間としてのまなざし」を注がれるのです。この主イエスのまなざしのもとで、私たちは共に生きていくように招かれています。