「正しさ、頑張り」ではなく   加藤 誠

 しばらく前に実父を天に送った方から、そのあとの法的処理が大変だった話を聞きました。さまざまな契約の名義変更、相続の手続きなど、書かなければならない書類、揃えなければならない書類の多さに閉口した、と。いずれも基本となることは同じで、「父親と自分の血縁関係を証明し、名義を引き継ぐ正当な権利が自分にあることを証明しなければならない」というのです。

 「親子であることの証明」は、考えてみると不思議なものです。わたしがいくら「この人に育てられた、血のつながった子どもなのです!」と主張しても、それだけでは認められない。何らかの「客観的な証左」、それを「証明する人」の証言があって初めて認められる。現代ならDNA鑑定が大きな力を発揮するのかもしれません。しかし、それら「客観的な証左」が真の意味での「親子関係」を証明してくれるかというと、それはまた別問題でしょう。

 

 聖書では「神と人との関係」が「親子の関係」に例えられることが多いのですが、ユダヤ教(旧約聖書)では人間の側の「正しさ、頑張り」が神と人とを親子として結びつける有力な条件と考えられていました。ですから、旧約聖書の人々は一生懸命に「律法」(戒め)の遵守に励んだのです。

 そのユダヤ教の環境で育ったパウロが、キリストを通して成り立つまったく新しい「神と人との関係」を知ります。人間の側の「正しさ、頑張り」ではなく、神の無条件の愛、赦し、決断が、私たちを「正当な権利を持つ子ども」とする。「親子の証明」は、私たちが頑張って証明するものではなく、神がすべて証明してくださる。私たちにできることはただ「その神の愛をもったいなく受け取って生きていきます」という賛美の告白だけなのです。