「新しい契約」の食事  加藤 誠

 五月の第二礼拝では、「共に集う」ことの意味を聖書から聴きたいと願っています。先週は「まず主イエスの言葉に集中する大切さ」をマタイ五章の「山上の説教」から聴きました。わたしたちが教会に「共に集う」のは、気の合う仲間との楽しい交わりのためではありません。一人ひとりに命を与えたもう神の語りかけを一緒に聴くためです。創造主なる神は、わたしたちのスケールをはるかに超えているので、その姿を見ることも、その声を聴くことも難しい。そんなわたしたちのために、神は主イエスにご自身の言葉を託して、一人ひとりへの永遠の愛をあらわされました。その主イエスの言葉を一緒に聴いてすべてを始めていく。それが教会という交わりが第一に大切にしていることです。
 主イエスは「山上の説教」の「幸い宣言」をもって、ご自身の働きを始めました。「この世界で、傷み、悲しみ、うずくまり、小さくされている人」、その一人ひとりに注がれている神の愛のまなざしを手渡し、幸いを届けるためにわたしは来た!…と。主イエスの生涯を見る時、十字架の死に至るまでその「幸い宣言」が貫かれていることを知らされるのです。
主イエスはその働きの締めくくりとして、十字架につけられる前の晩、「過越しの食事」を弟子たちと囲みます(マタイ二六章)。「過越しの食事」とは、神とイスラエル民族との間に結ばれた「特別な契約」を想起するユダヤ教の大切な食事でしたが、主イエスはご自分の十字架においてその「契約」が破棄され、一新されたことを示されたのです。それはイスラエル民族だけでなく世界のすべての民が神の愛にあずかる「新しい契約」でした。教会は、この「新しい契約」に生きる喜びと和らぎを分かち合うために「共に集う」のです。