「招待客」に求められる「礼服」 加藤 誠

イエス・キリストが地上で宣教活動されていたとき、イエスに従う弟子たちの群れはまだ「教会」と呼ばれませんでした。復活したキリストが呼び集め、世に向けて派遣される中に「教会」は建てられていったのです。
地上のイエスに従う弟子たちの群れと、復活のキリストによって建てられた「教会」と。どちらもがイエス・キリストに呼び集められた群れでありながら、両者には決定的な違いがありました。それは「十字架」の経験です。
「十字架」の前に弟子たちの熱心や信仰はすべて吹き飛ばされ、彼らの罪深さが露わにされて、ただただ地にひれ伏すほかないことを思い知らされた者たち。その彼らに聖霊が吹き込まれていく中に「教会」は建てられていきました。神から「我が子よ」と呼ばれ、イエスから「我が友よ」と呼ばれる資格を一切持ち合わせていない者たちが、「我が子よ」「我が友よ」という呼びかけを受けて形づくられていく交わり。それが「教会」なのです。
そのような「ありえない招待」にあずかった者たちに求められているただ一つの条件。招待者は十字架の主であり、自分は「招待客」に過ぎないことを、常に心にしっかりと刻みつけられている。そういう意味での「礼服」を身にまとうことです(マタイ22章12節)。ところが、私たちはどこかで「教会」を「自分の家の居間」のようにし、「自分好みの、自分にとってくつろげる空間」にして緊張感を失ってはいないか。そのような厳しい問いかけを、マタイ22章の「婚宴のたとえ」に聴き取ります。
「ありえない招待を受けて自分はここに居る!」、「いったい今日どんな人たちと出会うことになるのだろう?」という、初めて招待を受ける畏れと緊張をもって、今日、復活の主が招かれる大井教会の交わりにあずかりたいのです。