「成熟」と「未成熟」~スチュワードシップの学び「奉仕する」~  加藤 誠

「奉仕する」とはどういうことでしょう? 新約聖書の「奉仕する」という言葉を調べていて興味深い発見がありました。
「奉仕する」とはギリシャ語の「ディアコネオー」(もてなす、執事を務める)という言葉で、「ドゥーレオー」(奴隷として仕える)という言葉とは区別して使われています。つまり聖書の「奉仕」は、「奴隷のように自由なく、自分を殺して労務する」ことではなく、「他のことも選べるけれど、でも誰かの喜びのために、今、わたしはこの働きを選び取る」という、自由意思をもってささげる仕事をいうのです。そして、イエス・キリストの生涯がこの「奉仕する」という言葉そのものであり、弟子たちも「先生と呼ばれて栄誉を受けることを求めることなく、神と人とに奉仕する/仕えることを学び取っていきなさい」と勧められています(マルコ10・42以下など)。

エフェソ四章では、「奉仕する」ことが「成熟」と「未成熟」の対比の中で語られています。パウロがここで語る「成熟」とは、「キリストに根ざし、キリストに向かう成長」のことであり、「愛に根ざし、お互いに補い合い、組み合わされて、キリストのからだにされていくこと」です。それに対し「未成熟」とは「世を支配する諸霊に奴隷として仕える」(ガラテヤ4・3)ことで、「目に見える立派さ、賞賛、豊かさに、奴隷のように心奪われている状態」を言います。

さて、わたしの奉仕は何に根ざし、何に向かう働きになっているでしょうか。エフェソ教会に宛てたパウロの言葉に照らして考え、点検してみたいのです。