「命の言」の証し スチュワードシップの学び④  加藤 誠

連盟理事会の三日間は、取り扱う課題の重さに「しんどさ」を覚えることもあるのだが、それを上回る「励まし」をたくさん与えられる。全国各地に建てられた教会の「生きた証し」に触れることがゆるされるからだ。

S牧師が、東日本大震災からまだまもない頃、福島の教会のある日曜日の午後の様子を撮影した動画を見せてくれた。放射能のために建物の外で遊べない小学生たちが礼拝堂で「礼拝ごっこ」をしている。司会者も奏楽者も説教者もすべて小学生。五年生くらいの男の子がそれらしく説教をしている。S牧師によると、司会者の祈りも説教者の言葉も、教会のおとなたちの口癖がマネされていて、「ふだんのおとなたちの礼拝が、子どもたちにしっかり見られていることがわかって可笑しかった」と言いながら、次のように語った。

「子どもたちの『礼拝ごっこ』を見ているうちに、おとなたちの礼拝も、神さまの目には『礼拝ごっこ』に映っているのかもしれないと思った。おとなは子どもよりもずっと厳かに、真剣に、しっかり準備して礼拝をささげているつもりかもしれないが、神さまの目から見たらほんとうにつたなくて、足りないところだらけの祈りと説教に違いない。けれども神さまはその礼拝を喜んで受けとり、私たちの奉仕を喜んで祝福してくださっているのだ。」

私たちの祈りも、奉仕も、献げものも、それを受け取り祝福してくださる方がおられるから成り立つ。私ひとりでは何もできないけれど、他の誰かの奉仕と組み合わされてはじめて教会の働きとされることを覚えたい。