「人の言葉」と「神の言葉」   加藤 誠

「今後あの名によってだれにも話すなと脅しておこう」(使徒4・17)。

「イエスこそ神の子」と語るペトロとヨハネを逮捕したものの、取り扱いにてこずったユダヤ教最高議会の面々は、「脅し」によってその言動を封じようとします。しかし「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられない」(同4・19、20)と、二人は微動だにしません。約二カ月前、イエス逮捕時には雲の子を散らすように姿を消した男たちの何という変わり様でしょうか。

先の都議会の例を見るまでもなく、人間は、事実として発せられた言葉さえも「聞かれなかった」と誤魔化し、「脅し」によって事実を歪めることをします。そのように、人間の歴史は時の権力者によってどれほど都合よく書き変えられてきたことか。しかし、その誤魔化しや脅しは、神の前では通じない。イエス殺害の「あやまち」が神に暴かれたように、人間がつくりだした「歪み」は必ず明らかにされ正されていく。その信仰を自ら体験した二人は、「人の言葉」によるどんな「脅し」にも屈することがありませんでした。

もう一つ、ありえないことが起こります。釈放された二人が戻った教会は心を一つにしてこう祈ったというのです。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」(同4・29)。このあと「大迫害」(同8章)を経験することになるエルサレム教会は、「人の言葉」と「神の言葉」のどちらに立つのかという闘いにおいて揺らぐことがありませんでした。いま、日本の歴史の分かれ目にあって、わたしは、また大井教会は、誰の言葉に立つのでしょうか。